日経新聞で、東京のオフィス賃料が「1年で1割上昇」したとのニュースがありました。見出しだけを見ると、「オフィス市場はどこも好調」「賃料は全体的に上がっている」と受け取ってしまいがちです。
しかし、冷静に見てみると、実態はかなり違います。いま起きているのは、
- 都心一等地の、新しくて設備が整った「 ごく一部の優良ビル 」への需要集中
- それ以外のビルとの格差拡大(=三極化)
であって、「東京中のオフィスが値上がりしている」わけではありません。
人材獲得競争やBCP対応(※)、快適なオフィス環境へのニーズが高まるなかで、企業は「立地」「建物性能」「ブランド」を総合的に見て、本当に選ばれたビルにだけ高い賃料を支払っています。
(※)BCP(Business Continuity Plan):「大きなトラブルが起きても、事業を止めず(または早く復旧し)、お客様・従業員・社会への影響を最小限にするための準備と仕組み」をまとめた計画のこと。
一方で、立地が中途半端なビルや築古ビルは、賃料を上げるどころか、条件を緩めても埋まりにくいケースも増えています。
つまり今回の「1割高」は、オフィス市場全体の好況ではなく、“選ばれるビル”と“選ばれないビル”がはっきりしてきたサインとして読むべき数字でしょう。
以下では、この視点を踏まえて「勝ち組ビル」「普通のビル」「厳しいビル」の三つに分けながら、オーナー・投資家・テナントそれぞれにとって、何を考えたらよいのかを整理してみたいと思います。
1. いま東京で何が起きているか
日経オフィスビル賃貸料調査(2025年下期)では、東京(都心)の賃料指数が前年比で約1割上昇とされています(募集ベース、1985年=100)。一方、他の都市の上昇は限定的で、東京一極で「良いビル」が奪い合いになっている構図です。
他のデータを重ねると、絵姿はよりはっきりします。
| 指標 | 主な内容(2025年時点) | 私見 |
|---|---|---|
| 都心Aグレード空室率 | 都心5区Aグレードで空室率0%台との調査もあり(例:JLL Q3時点で約0.9%) | 「空いていないから高くても入る」状態。TOPレベルは実質売り手市場。 |
| 主要7区平均空室率 | 約3%前後まで低下との民間調査(2025年9月末、三菱地所リアル等) | 市場全体としてはタイト化。ただしビル個別で明暗が大きい。 |
| 長期空室ビル | 一部湾岸・周辺部・築古ビルで「空室率20%以上が長期化」との分析も継続(ザイマックス総研など) | 「ダメな場所は本当に埋まらない」構造問題が顕在化。 |
| REIT・投資マネー | 東証REIT指数や好立地オフィス中心の銘柄には資金流入基調 | プライムオフィスのキャッシュフロー期待は高く、海外マネーも呼び込みやすい環境。 |
数字だけ見ると「オフィス好況」に見えますが、鑑定評価では、
「誰の、どのビルの話をしているのか」
を冷静に切り分ける必要があります。
2. 「良いビルだけが上がる」三極化構造
区分①:勝ち組Aグレード・新耐震・大規模・好立地
条件イメージ:
- 都心5区(丸の内・大手町、日本橋、虎ノ門、赤坂、渋谷周辺など)
- 延床3万㎡超、基準階1,000㎡超、1990年以降(実務上はもっと新しい方が優位)
- 高スペック:免震・制振、BCP対応、環境認証、共用ラウンジ等
ここは、下記に支えられ、今回の日経が指摘する「賃料指数1割高」の主役です。
- 採用・ブランディング目的の移転需要
- 海外資本・REITの取得意欲
そして鑑定上は、
- 潜在需要が厚く空室リスクが低い
- 将来賃料も比較的強気なシナリオが説明可能
- 還元利回りも相対的に低位で許容されやすい
という「教科書どおりの優等生」です。
区分②:普通のビル(Bグレード中心)「選別される側」
- 立地は悪くないが、小規模/築古/スペック平凡
- コロナ禍後のフロア縮小やレイアウト変更で「これでいいか」の対象になりにくい
ここでは、以下のケースも目立ちます。
- 賃料1割アップどころか横ばい〜微減
- 内装インセンティブやフリーレントを出さないと決まらない
鑑定では、
- 募集賃料だけ見ると強気でも、実効賃料(フリーレント・工事負担込み)で補正
- 長期空室率・テナント属性を確認
- 還元利回りはAグレードより確実に高くとる(リスク反映)
ことが不可欠となります。
区分③:構造的に厳しいビル(湾岸、周辺部、老朽ビル等)
- アクセス不利、競合新築の影響、耐震・BCP・省エネ性能が不十分
- 空室20〜30%が恒常化、賃料ディスカウントしても埋まりにくい
ここは、
- 「オフィス需要回復」の恩恵がほとんど届かない
- 将来は用途変更・コンバージョン・解体も現実的な選択肢
鑑定としては、
- 「一応オフィス賃料」で評価するのではなく、最有効使用の再検討(ホテル・レジ・倉庫・駐車場など)
- CAPEX(改修費)やESG要件未達によるテナント離れを数値として織り込む
視点が必要となります。
3. 人材獲得競争と「オフィスは福利厚生」という発想
今回の記事の背景には、明確に 「人材獲得のためのオフィス投資」 があります。そこで、企業の本音と、鑑定評価で不動産鑑定士が見ている点を整理してみました。
| 企業の動機 | オフィスに求めるもの | 鑑定士が評価で見ている点 |
|---|---|---|
| 採用・定着 | 駅近、眺望、ラウンジ、カフェ、ABW対応、コミュニケーションスペース | 単なる坪単価比較ではなく「付加価値設備」を賃料プレミアとして評価 |
| 生産性 | 天井高、自然光、空調性能、ITインフラ | スペック差が実際に賃料差・稼働率差として現れているかを事例で確認 |
| リスク管理 | 耐震、非常用電源、水害・停電対策 | BCP対応の有無は、優良テナント誘致力=空室リスク低減として、利回りに反映し得る |
不動産鑑定の現場から見ると、「高いけど埋まっているビル」は、“割高ではなく、割に合っている” ケースも多いです。
一方で、「安くても埋まらないビル」は、単に賃料設定の問題ではなく、物件価値としての競争力不足を疑うべき局面だと感じています。
4. 鑑定実務:どう数字に落とし込むか
4-1. 賃料水準の扱い
ポイントは「+1割」という見出しをそのまま当てはめないことです。
プライム立地・大型オフィスは、実際の成約事例を追うと、共用部の質、インセンティブ込みでも上昇傾向が確認できるエリアもあり、想定賃料をやや強気に修正する合理性があります。
一方、中小・既存ビルは同じエリアでも「据え置き〜微減」「成約まで長期化」事例があり、「東京1割高」の言葉を採用するのは危険です。
鑑定では、以下を丁寧に分解して書くことで、専門性と説得力が出ます。
- 「募集賃料」と「実効賃料」のギャップ
- 成約までのリーシング期間
- インセンティブ負担
4-2. 還元利回り(キャップレート)の考え方
今の東京オフィスは、
- プライム:空室率低下+賃料上昇 → リスク認識が低く、利回りは低めでも許容
- セカンド・サード:賃料伸び悩み+長期空室リスク → むしろ利回り上乗せが必要
という方向にあります。ざっくりイメージとしては、
| タイプ | 還元利回りの方向感(例示イメージ) | コメント |
|---|---|---|
| プライムAグレード | 相対的に低位〜横ばい | 賃料成長期待もあり、国内外投資家が厚く支えるゾーン |
| Bグレード中心 | やや高めに設定 | テナント入替リスク、インセンティブ負担を反映 |
| 問題ビル | さらに高く、または別用途前提で評価 | キャッシュフロー不安定。収益還元単独は危うい場合も |
※具体的な利回り水準は、日本不動産研究所の投資家調査、実際の取引事例などを総合して案件ごとに設定。
5. オーナー・投資家の立場から
5-1. プライム立地ビルのオーナー
今回の環境は追い風ですが、賃料上げすぎて優良テナントを失うリスクも同時に存在します。
「長期で付き合えるテナント」との関係性、BCP投資・設備更新を怠らないことが、結果として鑑定評価額の安定につながります。
5-2. 中小ビルオーナー
正直なところ、一番難しいポジションです。「東京は1割高らしいから、うちも上げよう」では空室リスクが跳ね上がります。
代わりにできることは、エントランス・トイレ等のピンポイント改修、ネット環境整備、セキュリティの改善、柔軟な分割・短期利用の提案など。
鑑定的には、こうした「小さな工夫」が実効賃料と稼働率に効いてくるため、評価にも反映可能です。
5-3. 厳しいビルのオーナー
ここは「正面から市場に向き合う」局面です。賃料を下げても埋まらないなら、「用途転換」「区画統合・解体」「土地としての再評価」も、冷静に検討する価値があります。
鑑定士としては、その選択肢ごとに必要な投資額、想定賃料・利回り、残存耐用年数などを整理し、「どのシナリオが一番“マシ”か」を一緒に考える役割があります。
6. テナント企業へのヒント
「いいオフィスが高い」のは事実ですが、
- 採用・定着・生産性・ブランド
- 災害時にも事業を止めない体制
- 社内コミュニケーションの質
まで含めて考えると、“高いけれど安い投資” になるケースもあります。一方で、「周りも移転してるからうちも」だけで判断すると、固定費だけ増えて業績を圧迫しかねません。
個人的には、以下の定量的な軸も一緒に見ていただくと、判断の質が上がると感じています。
- 「賃料総額/従業員数」
- 「1人あたり生産性」
- 「レイアウト効率」
7. まとめ
最後に、一番お伝えしたいことはとてもシンプルです。
「東京のオフィス賃料が1割上がった」という見出しは、
あなたのビル(または探しているビル)にそのまま当てはまるとは限らない。
- 立地
- 建物スペック
- テナント属性
- 管理状況
- 将来の用途可能性
これらを一件一件見ていくと、同じ「都心オフィス」でも評価はまったく違います。
派手な言葉に流されず、「この物件は、このエリアの中でどんなポジションなのか?」を整理していくことが、オーナーにとってもテナントにとっても、一番のリスクヘッジになると考えています。